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即位

​「即位」

 後鳥羽天皇は治承4年(1180)に第80代天皇の高倉天皇の第4皇子としてご誕生。即位前は尊成(たかひら)親王となります。第79代天皇の後白河天皇の孫にあたる系譜で、第81代天皇の安徳天皇の弟君となります。母君は藤原(坊門)信隆の娘・藤原殖子で、院号の七条院で紹介されている書籍も多いです。

後鳥羽天皇の即位は、平安時代から鎌倉時代への移行に大きく影響されています。

 寿永2年(1183)、当時の政権の主導権争いである源平の戦いは激しさを増します。その時は安徳天皇の御代でした。安徳天皇の母君は平家の当主・平清盛の娘ということもあり、源氏が優勢になると平家一門は天皇を奉じて西国に拠点を移しながら反攻の機会を伺います。

 しかし都では天皇が不在となり、朝廷の運営は混乱をきたします。そのため朝廷で院政を行っていた後白河院の聖断により、第80代天皇であった高倉院の皇子より第4皇子を第82代天皇とすることが決定されます。後鳥羽天皇は、この時、わずか4歳でした。

その2年後、安徳天皇が壇ノ浦の戦いでお隠れになります。この時、三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)も海に沈んだとされます。(後に海より引き上げられますが、剣だけは見つからなかったと伝わります)

院政時代

「院政時代」

 建久9年(1198)、第1皇子(土御門天皇)に天皇の位を譲られます。御年19歳。この後、院を構えてご活動を始められますが、以後も朝廷の政治に関わり、院政を行いました。後鳥羽院については、実は天皇の在位期間中の事はあまり語られません。なにぶん幼少であられたことと、この時代の朝廷の運営には祖父にあたる後白河院の影響が大きかったからと考えられます。

また後鳥羽院は、院政のみを行っていたのではありません。そのご見識と才能を発揮され、宮廷文化の復興に力を入れ、和歌、刀剣、弓、相撲、蹴鞠、琵琶などにも造詣が深かったことが知られます。特に、建仁元年(1201)、院の御所に「和歌所」を復興させて、勅撰集『新古今和歌集』の編纂を進めました。なお、この編纂事業の実務を務めたのが、藤原定家、藤原家隆らです。

 こうした事業を推進されたのは、ご自身がお好きであったとされる一方、時代の移行期に長く続いた争乱からの復興の先頭に立つべく、古の時代に学びながらも時代に応じた朝廷像を考えておられたとの研究もあります。

承久の乱

​「承久の乱」

 承久の乱は、承久3年(1221)に起こった日本を二分する戦いです。

 かつては貴族と武士の権力争いとして語られることが多かったのですが、研究が進むにつれ、当時の様々な国内事情が絡み合って起きた戦いであることがわかってきました。

 一般的には、戦いのはじめは後鳥羽院の発した北条義時追討の院宣とされますが、そこに至るまでには当時の社会不安、西日本と東日本の土地(税)の扱いの違い、朝廷の重点政策に関する地方の有力者の対応の違いなど、とても多くの要因が含まれていたようです。これについては専門家が最新の説を書籍などにまとめておりますのでそちらをご覧いただきたいのですが、けっして後鳥羽院お一人の考えで戦いに至ったのではないという事をご理解いただきたいところです。

 さて、乱の経過としては、後鳥羽院は院宣を出されるのですが、多くの武士団の賛同を得る形で戦いを進めた鎌倉幕府軍が勝利をおさめました。この時に有名なのが、源頼朝の妻であり尼将軍ともいわれていた北条政子が鎌倉方を鼓舞する演説です。そして、この演説の中では、天皇や上皇を直接の敵といっているのではなく、この方々を扇動して誤った政策に進ませている者たちを討つように述べています。

隠岐に遷幸

​「隠岐に遷幸」

  戦いに敗れ、隠岐にお遷りになることが決まりました。隠岐に旅立たれる前、ご出家に先立ち、藤原信実にお姿を写させ御母君七條院に形見として残された。この御影は現在、大阪の水無瀬神宮に所蔵されています。

 後鳥羽院が進まれたルートについては諸説があり、確定はなされておりません。有力な説としては、京から大阪、兵庫、岡山と瀬戸内側の街道を進まれ、今のJR伯備線に近い道で山陰側に移り、そして美保の浜から船で進み、その日の夕刻に隠岐諸島の中ノ島(海士町)の崎の浜にご到着とされます。

なお、美保からの出航までに数日風待ちをしたとされ、その際の美保での行在所と伝わるのが「佛谷寺」(島根県松江市美保関町)です。

また、鳥取県境港市の上道地区には「皇(おう)の松」と呼ばれる松の伝承地があり、それによると院が風待ちをされたある日、ここにあった松の下でご休息を取られ、そこで地元の接遇を受け喜ばれたことに始まるお祭りがあります。

 なお、無事に崎にご上陸の後、一夜の宿を探す間、お座りになられていたという御腰掛の石もあり、その周辺には「やどごい」の地名が残っています。なお、院のお宿とするにふさわしい民家がなかったことから、地区の氏神である「三穂神社」で夜を明かしたと言われています。

 そして翌日、再び崎の浜から船で堤という場所まで進まれて、そこからは島の稜線をたどって行在所にご到着になったと伝わります。

隠岐での生活

​「隠岐での生活」

 後鳥羽院の隠岐での行在所については、『吾妻鏡』には隠岐国阿摩郡苅田郷と記されており、これが現在の後鳥羽院隠岐山陵のある場所とされます。明治初期までは、この場所に源福寺という真言宗のお寺があり、ここで隠岐での19年間を過ごされたと伝わります。

 都とは一変する隠岐の日々で、こころを支えたのは和歌の道とされます。『遠島御百首』『隠岐五百首和歌』をはじめとする成果は、今日さまざまに広がる詩歌文化の道を拓いたとされ、時代時代の歌を志す人の道標ともなりました。また、今から800年前の島の風景や暮らしを検証する資料としての価値もあり、まさに院の和歌により隠岐のルーツを知る事にもつながります。

さらに、隠岐と京都で文をやり取りして成立した「遠島歌合」は、今でいう遠隔を結んでの共創事業ともいえます。後鳥羽院に関する研究は、客観的な事実に基づくものもあれば、研究者が生きる時代の背景を知らず知らずに受けてしまうものもあります。長く後鳥羽院については、最後の日まで悲しみの日々を送られたと語られてきました。しかし、近年の研究では、後鳥羽院が隠岐においても京都でお過ごしになっていらっしゃった時と同じく、常に過去の日本文化の研究と挑戦にエネルギーを注がれていたようにも描かれます。

また、確たる証拠まではないものの、後鳥羽院を慕った京都の刀剣職人が隠岐に移り住み、院のために作刀を続けたとする「隠岐御番鍛冶」伝説が生まれたのも、院がどのようなお立場にあろうとも、院の目にかなう者こそが一流とする当時の価値観が確立されていたからでしょう。

 なお、晩年には、仏教の教えを説いたとされる『無常講式』を残されています。離れた島での時間であっても、何事も極めていかれようとするその姿勢の先に、世の無常へとお考えを進ませたのかもしれません。

 一方、当時の隠岐の守護は島後に本拠を構える佐々木氏であり、その監視下での日々でありました。海士町にもその命を受けて、後鳥羽院にお仕えしつつ動静を把握する守護の家来がいたと思われますが、その資料は現存しておりません。日々のお食事、お住いの形状など興味が尽きないところではありますが、今となっては推測しかできないのが残念です。

崩御

​「崩御」

 都からここに遷られたのは42歳をむかえられた時。19年間この海士で過ごされましたが、京都にお還りになることはついにかなわず、都から遠く離れた隠岐の地にて60歳で崩御されました。

 その際には、隠岐の責任者であった守護職の佐々木義清が涙したとされ、いわゆる監視役の立場にあった者でも後鳥羽院のお人柄に惹かれていたことがわかります。

お亡くなりになる数日前に記されたとされる「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」などが残されており、その複製が隠岐神社宝物として海士町後鳥羽院資料館に展示されています。

崩御後から隠岐神社創建まで

​「崩御後から隠岐神社創建前まで」

亡骸はこの島で火葬されて、御遺骨は京都にお還りになり、京都・大原の里に納められました。今の三千院がある場所です。なお、一部については院の行在所とされた海士の源福寺の境内に、廟をお造りして納めました。

 その廟がどのように維持されてきたのかについては記録にない部分が多いのですが、江戸時代に入り、猪熊事件の事後処理で公家の飛鳥井雅賢が隠岐に流されてきたことが転機となります。雅賢は後鳥羽院の廟がほとんど顧みられず傷んでいることを目にし、飛鳥井家として修復作業を行いました。その後、松江藩の藩主に松平直政が就き、その指示で松江藩の管轄地の調査が実施されて以降、管轄地する藩の事業として廟の維持がなされることとなります。

もっとも、その実務は源福寺と地区の庄屋が委託されていたと考えられます。町営の「村上家資料館」には、地区の庄屋を務めていた村上家が後鳥羽院の周忌にあたり、院とゆかりの深い水無瀬家より代参を任せられた時の装束、後鳥羽院神社の祭礼に関する古文書などが展示されています。

その後、江戸の後期になると、廟は「後鳥羽院神社」と姿を変え、島民の手によりお祭りがされるようになりました。なお、後鳥羽院が隠岐に到着された後に子牛のたわむれるお姿を目にされ、当時人気のあった『鳥獣戯画』の一場面を思い出して喜ばれたことを起源とする「牛突き」は、この「後鳥羽院神社」の祭礼の奉納行事とされていたようです。

この頃に、もともとは慰霊の対象であった後鳥羽院は、島の神さまと考えられるような変化があったのかもしれません。後鳥羽院神社のことを「ごとばんさん」と親しみを込めて呼んでいたのが、今では後鳥羽院のことをも含めて「ごとばんさん」という方が増えています。

 しかし、明治になると島の後鳥羽院に大きな変化が訪れます。それまで、それぞれの崩御の地でもおまつりされていた後鳥羽院、土御門院、順徳院の三帝の御霊については、大阪にある水無瀬神宮においておまつりすることが決定されます。これに基づき、後鳥羽院の御霊については、明治6年に隠岐から水無瀬へおかえりいただく御神霊奉還祭が行われました。翌7年、島でのおまつりの場であった「後鳥羽院神社」は役目を終えたとのことから、島民の反対があったものの、その社殿をはじめとする建物を取り払うこととなってしまいます。

しかし、その際に本殿下の地中に瓶が3段に重ねて納められているのが発見され、これ以上の作業を進めることは恐れ多いとして村長に報告されます。これ以降、旧源福寺の境内地は宮内庁によって後鳥羽天皇の御陵の一部と定められ、「後鳥羽天皇隠岐山陵」として今も管理がなされています。

 その後、町民の方々は隠岐山陵を中心とした場所や後鳥羽上皇のことを「ごとばんさん」と親しみを込めて呼び、清掃奉仕や歌の奉唱、相撲大会など色々な行事がその周辺で行われてきました。

隠岐神社創建

​「隠岐神社創建」

 時が経ち、昭和14年、後鳥羽院をご祭神とする「隠岐神社」が島根県民あげて創建されました。なお、この年は後鳥羽院がお隠れになって700年の年にあたります。

 それまでの後鳥羽院のお祭りは、先ほどのお墓を中心とした、どちらかというとお慰めする行事であったと考えられます。しかし、後鳥羽院は、伝統的な儀式や芸術・芸能・武芸をとても大切にされ、自らがその先頭に立って道を示すことで日本文化の発展に尽くされたお方でもあります。そのお姿と徳を称え、日本の歩みの記憶とするべくこの神社での祭祀は始まりました。

 後鳥羽院は和歌の道については言うに及ばず、今の弓道、相撲、水泳、蹴鞠、楽器の琵琶など先進的で多才な帝王であられました。また、京都にいらっしゃる時のことですが、当時の有名な刀匠を御所に召して院に相応しい作刀を命じました。後に「御番鍛冶」と称される刀匠の作品の内、特に後鳥羽院の目にかなったものについては、茎のところに菊の花がうっすらと刻まれたそうです。この菊の花から続くのが現在の皇室の菊の御紋です。

 そうした経緯もあり、神社の紋章は菊花紋の一つである「菊浮線(きくふせん)」となりました。菊の花を割って四方に配置されたこのデザインは、国宝「紙本著色後鳥羽天皇像」<伝藤原信実筆>で院がお召しになっている装束にも配されています。

 なお、隠岐神社は島根県の多くの造りとは異なり、当時の神社局の設計によるもので、その構造や配置は明治神宮や橿原神宮に近いイメージです。日本海の孤島でありながらも、後鳥羽院の名にふさわしい神社が目指されたのでしょう。戦争も近づいていた時代でしたが、その材も厳選されていたようです。

 天皇家に特別の縁のある神社ですから、創建の後には皇太子をはじめ皇族方にもご参拝いただいております。

​■天皇・上皇・院の用語について

説明では「後鳥羽天皇」のことを「後鳥羽院」と称しています。

それは次の点によるものです。

1.ご生涯について正しく表記すると「後鳥羽天皇」となります。しかしながら、平安~鎌倉の時代は今とは異なりご生前の内に天皇の位を譲られることが多かったため、「〇〇天皇」と表記すると同じ時代に複数の天皇がいらっしゃったかのような印象を与えてしまいます。

 

2.「上皇」とは元天皇のことで、「太上天皇」を短くしたものとされます。「後鳥羽」という語は、崩御された後に、天皇につかれていた時代を振り返っての諡(おくりな)です。崩御される前には「太上天皇」「先の帝」などとなります。

 

3.後鳥羽天皇については、上皇となられてからのご活躍が広く知られるため、「後鳥羽天皇」よりも「後鳥羽上皇」の方がなじんでいると思われます。

 

4.しかし、この顕彰事業では後鳥羽上皇のご生涯についてのみ注目するのではなく、後鳥羽上皇のご活動を中心に育まれた文化にも注目しています。よって、後鳥羽上皇がご活動の拠点として「院」を構えておられ、そこでの成果の主人公として語る際に「後鳥羽院」としている事例が多いことから、「後鳥羽上皇」ではなく「後鳥羽院」としています。なお、「院」とは大学院や病院などと同じく、建物としての意味も含まれています。

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